人はなんのために生きているのか?

Keiです。

「人は何の為に生きているのか?」

というのは、誰しもが人生を過ごす中で一度は思い浮かべる疑問の1つだと思います。

この答えには色々あります。

例えばよく聞くものでは、

「生きる目的を見つける為に生きているんだ」

とか。

また他にも、

・人生の謎を解き明かす為
・真実の自分を見つける為
・人生を楽しむ為
・他人に奉仕する為
・死にたくないから
・むしろ逆に死ぬ為に生きている

といった回答もよく見られます。

中には、

「生きる目的なんて疑問に思う方が間違っている」

という、質問が出てくる前提を丸ごと潰すような答えも見かけました。

結局のところ“生きる目的”なんて答えがあるものではなく、個々人が好き勝手に考えていれば良いんだって事が分かる状況ではあります。

ただそんな“答えが存在しない質問”に対して

「自分なりのただ1つの答え」

を求めている人が多いのも事実です。

もしかしたらこの記事を読んでくださっているあなたも、今の自分自身の人生に疑問を抱えていて、同時に自分だけの“人生の目的”を見つけたいと願っているのかもしれません。

というわけで今回は、私なりに

「人は何の為に生きているのか」

という質問に対する回答をしてみたいと思います。

結論から入りますが、私は“人が生きる目的”については、

「放っといたら生きるようにできているから」

だと考えています。

身も蓋もありません(笑)

ただ、これには私がそう考える明確な根拠があります。

あなたは“自然選択説”ってご存知でしょうか。

Wikipediaでは以下のように解説されています。

自然選択説(しぜんせんたくせつ、英: natural selection)とは、進化を説明するうえでの根幹をなす理論。

厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、進化に方向性を与えるという説。

1859年にチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスによってはじめて体系化された。自然淘汰説(しぜんとうたせつ)ともいう。

引用:自然選択説

例えばキリンや象から考えてみれば分かりやすいかもしれません。

「象の鼻はなぜ長いのか?」
「キリンの首はなぜ長いのか?」

というのは子供でもよく考える疑問だと思いますが、これって何故でしょうか?

「進化の過程で徐々に長くなっていった」

と答える人も多いと思いますが、実際には「象の鼻が長くなった」のも「キリンの首が長くなった」のも単なる結果論で、

「鼻の短い象や、首の短いキリンは絶滅したから」

と考えるのが自然です。

子供向けのサイトの回答には、象の鼻についてこんな風に書いてあります。

大昔、ゾウは今のような巨体ではありませんでした。約6000万年前にいたゾウの先祖(せんぞ)は、今のバクのような動物で、鼻も短かったのです。このころゾウの先祖は湿地(しっち)や森林にすんでいました。しかし長い間に進化するにつれ、生活の場を草原にうつし、だんだんと体が大きくなっていったのです。

体が大きくなると、水を飲んだりするのにもエネルギーを使うようになります。そのようななかで、鼻が少しでも長いと生きていくのに便利だったのです。そのために、ゾウはだんだん鼻の長い仲間だけが生きのこり、数がふえていきました。そして、ついに鼻の長いゾウだけが生きのこり現在のようになったのです。

引用:科学なぜなぜ110番

分かりやすいですね。

鼻の短い象は、“それより少しだけ鼻の長い象”よりも死にやすい。

だから、割合的にも“鼻の長い象”の方が多く生き残る。

そうやって物凄く長い時間を掛けて、“周囲よりわずかに鼻の長い象”が生き残り続けた結果、今のような象が生き残っている。

・・・という事です。

キリンの首が長いのも同様なんですが、こちらはちょっと専門的な解説になります。

高いところの葉を食べるのに有利だったから長い首を持った個体が生き残った、と説明される。

ただし、選択圧は一つだけとは限らない。長い首は辺りを見回すのにも有効である。一方で、それを維持するための負担がある。首を支えるには大きな体が必要で、そのためには食料も多く必要になる。脳まで血液を送るための強靱な心臓と、逆に鬱血しないための脚の特殊な構造が必要であるが、これらは首を長くしない方向の選択圧である。

キリンは600万年かけて4mの首を持つに至ったが、一年あたりで言えば1,000分の6ミリにすぎない。ダーウィンフィンチで見られるように、選択圧は双方向に働き、長くなったり短くなったりしながら今日のキリンになったと考えられる。

自然環境によっては“首が短い方が有利な状況”もあったと考えられますが、トータルで見れば“首が長い方が生存しやすい環境”が長かった為、結果的には現在のようなキリンが生き残ったという事ですね。

自然選択(自然淘汰)の結果、現代の生物が生き残っている。

なんだか予定していたよりも遥かに壮大な話になってきましたが、もう少し続けます。

地球上に生命が誕生して以降、様々な自然環境の変化によって数多くの種類の生き物が生まれ、そして絶滅してきました。

恐竜時代の幕開けとも言われる三畳紀の終わり頃には、火山活動の活発化によって地球上の生物の実に76%が絶滅したと言われていますし、白亜紀後期にも大量絶滅が起こり、地球上の全生物の70%が絶滅したと言われています。

これらの大量絶滅は非常に強烈な印象を与えてくれますが、逆に言えば両方の大量絶滅を乗り切った生物も確かに存在するわけです。

100年程度の短い単位で時間を見ればそれほど地球環境に大きな変化は感じられませんが、長い時間スケールで見れば何度も“大量絶滅”が起こっています。

ちなみに、“現在”も大量絶滅が起こっている最中だと見ている生物学者もいるようです。

1998年のアメリカ自然史博物館による調査によると、70%の生物学者は、現在、大量絶滅が起こっていると見ている。

引用:大量絶滅

そんな現在の話はともかくとして、当初の話に戻れば、

「人は何の為に生きているのか?」

という質問に対してもこれらと同じように答える事ができます。

すなわち、

「目的なんて無く、死ぬまで生きない人間は絶滅した」

という事です。(酷い表現ですが)

言い換えれば、冒頭で述べたように「人間は放っといたら生き続けるようにできている」とも言えると思います。

というわけで、何のロマンもない回答でアレなんですが、

「人間に生きる目的なんて別に無いし、基本的には自然に死ぬまで生き続けるようにできている」

という風に私は考えています。

人間は潜在的に「ポジティブ」である。

どこで聞いたが忘れましたが、“人間は潜在的にポジティブ”だと言われます。

例えばカール・ロジャーズという臨床心理学者は、

人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている。有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である。

引用:カール・ロジャーズ

と言っており、こういった人間のポジティブな傾向性を“実現傾向(actualizing tendency)”と呼んでいます。

今現在「生きる理由」が分からずに深く悩んでいる人からすれば

「そんな事言ったってそんな風に思えるわけがない」

と思うかもしれませんが、この人間の性質や本能は先の“自然選択説”からしてもあり得る話だと思います。

もちろん、必ずしも“自己実現する力”を持っているとは限りませんが、少なくとも

「自分が生きやすいように状況に対処する能力」

は持っていても全くおかしくありません。

逆に言えば、そんな能力すら持っていない人間が現代まで生き残る事ができるかどうか、と考えれば良いかもしれません。

ですので、基本的には人間はポジティブであり、生まれた瞬間から「死にたい」と思っているような人は存在しません。

しかし人間は“自己実現の力”を持っているのと同様、“危険を回避する力”にも長けています。

これは現代の人間に備わっている“損失回避性”(利得より損失の方が強く感じる心理的な傾向)を考えれば分かりやすいと思います。

参考:
>行動経済学:「プロスペクト理論」と損失回避性。

本来この性質は人が生き残る為に極めて重要な役割を果たすはずなんですが、現代社会においては、むしろ邪魔になっている事の方が多いように思います。

人は自分で「損失=恐怖」を作り出す。

日本は世界でもトップクラスに平和な国です。

日常生活を送っていて、本当の意味で「殺されるかもしれない」とか「死ぬかもしれない」という危険を感じる事はまずありません。

ただ、中には「平和ボケしてる」って言う人もいるぐらいですので、

「“平和な状態”が当たり前になっている」

という人が私を含めてほとんどだと思います。

「平和って言われれば確かにそうなんだろうけど、だからってその事に心から幸せを感じるかって言われるとそうでもない」

なんて人も多いと思います。

(あなたはどうでしょうか?)

過去の戦争なんかを考えれば、平和なのは非常に良い事です。

良い事なんですが、それによって私達は

「恐怖でも何でもない事まで恐怖だと感じてしまう」

という状態になってしまっています。

自然選択説から考えれば、人間が長い時間を掛けて手に入れた“損失回避性”は本来、“生きるか死ぬか”の危険に対処する為に手に入れた性質だと私は思っています。

しかし、現代ではそんな“命の危険”なんてまず存在しません。

じゃあどうなるか。

損失回避性は人の生まれ持った性質ですから、今の“平和な状態”から少しでも外れるような危険(損失)を回避しようとします。

命の危険なんて何にも無いような状況であっても、それを“危険”と判断し、恐怖を感じてしまいます。

言ってみれば、「恐怖を自ら作り出している」わけです。

例えば私の場合だったら、

・人前でスピーチする
・知らない人が集まるパーティーに参加する
・新しい仕事にチャレンジする

なんて事が苦手ですし、会社員時代には何故か“カラオケ”という単語を聞くだけでも恐怖(苦手意識ではなく)を感じていました。

恐らくあなたにも、同じように“なんかよく分かんないけど逃げたくなる状況”があるのではないでしょうか。

人によっては、

・学校に行く
・会社に行く
・アルバイトに行く

といった事に対して“恐怖”を感じる場合もあるかもしれません。

ただ、私が挙げたような例って本来は“命の危険”に直結するような話でも何でも無いはずです。

仮に本当に命の危険があるのなら、それこそ警察に通報すれば良い話です。

しかしそんな事を言われたって、私達は現実に“恐怖”を感じますし、“失敗すれば自分の存在(命)に関わる”とまで強く感じる場合もあります。

そういう意味で、現代では危険を回避する為の損失回避性が逆に邪魔になっているケースも多いように思うわけです。

むしろ、そんな危険を無視して行動できる人の方が成功する事が多いんじゃないでしょうか・・・。

自分の人生は自分で「選ぶ」事ができる。

あなたが今、どういった理由で

「人はなんのために生きているのか」

という疑問に対する答えを求めているか、私には分かりません。

純粋な興味で知りたいのかもしれませんし、自分の人生に意義が見出だせなくなっていて、人生そのものに対して疑問を感じ始めているのかもしれません。

そしてもし後者の理由なのだとしたら、

「自分の人生を生きる事ができていない」

とか、

「他人に自分の人生をコントロールされている」

という風に強く感じているのかもしれません。

もしあなたがそう感じているのであれば、私としては、そんなあなたに対して

「自分の人生は自分で“選ぶ”事ができる」

という事をお伝えしたいと思います。

他人にコントロールされる人生を選ぶ事もできれば、コントロールされない人生を選ぶ事もできる。

やりたくない事をやる道を選ぶ事こともできれば、やらない道を選ぶ事もできる。

これは別に、

「やりたくない事から逃げても良い事なんて無いですよ」

といった説教じみた話をしたいわけではなく、単にどちらかを“選ぶ”事ができるんだと言いたいだけです。

多くの人(私も含めて)は、遊びや趣味に対しては自分から進んで取り組みますが、それ以外の仕事や勉強などに対しては、

「やらなければならない事」

という意識を持って取り組むケースが多いように思います。

この「やらなければいけない」というのは非常に厄介で、その裏には、

「でも本当はやりたくない」

という気持ちが潜んでいます。

「会社に行かなければならないんだけど、行きたくない」
「人前で話なんてしたくないんだけど、話さないといけない」
「嫌いな人に会いたくないんだけど、会わないといけない」

形は色々あるでしょうが、いずれにしても問題なのは“自分で選んでいない”という点です。

むしろやらなければやらない事を強制的にやらされている感があるわけですから、“他人に勝手に選ばれている”という感覚があると思います。

特に仕事なんかは人生の大半を占めている人も多いですから、それが“やらなければならない事”になっているのなら、

「人生の大半を他人にコントロールされている」

と感じるでしょうし、それこそ

「何の為に生きているのか分からない」

といった感覚を抱く可能性も十分にあります、っていうか私はそうでした。

しかし、こういった感覚は“自分の思考”によってある程度コントロールする事ができます。

それが、

「自分の人生を自分で選ぶ」

という事にも繋がってくるわけです。

もしあなたに“どうしてもやりたくない(でもやらなきゃいけない)事”があるのなら、2つの道を選ぶ事ができます。

1. やりたくない事を自らやる決断をする
2. やらずに、その結果の責任を受け入れる

1つ目の道は“やりたくない事をやる”という表面的な行動は同じですが、その意識は大きく異なります。

「やらなければいけないと思いながらやる」のは“他者にコントロールされる人生”ですが、「自ら決めてやる」のは“自分でコントロールする人生”です。

嫌いな事や人を無理に好きになる必要性は全くありません。

世の中の自己啓発的な話では、「好きな面を探しましょう!」と言われる事も多いですが、そんな必要は全く無いわけです。

ただ、嫌いな事をやる事を選ぶか、やらずにその責任を受け入れるかを決断する事はできます。

もしかしたら今はピンと来ない話かもしれません。

が、試しに1週間ぐらい“やらなければいけない”と自分に言い聞かせる回数を数えてみれば、あなたが如何に「コントロールされる人生」を送っているかに気付く事ができると思います。

「やらなければいけない」→「自分で選んでする(またはしない)」

という意識上の変化は小さなものですが、その効果は絶大です。

あなたは“自分の人生”を自分で選ぶ事もできますし、“他人に選ばれる人生”を選ぶ事もできます。

生き続ける道を選ぶ事もできますし、自ら死を選ぶ事もできます。

私としては、あなたには是非“自分の人生”を自分で選び、あなたの望む人生を送ってほしいと思っています。

Kei

PS:

今回お話しした“選ぶ”事に関する内容は、こちらにより詳しく書かれています。

>戦略的グズ克服術―ナウ・ハビット

アメリカでは何十年ものロングセラーを誇る名著なのに、何故か日本ではあまり売れていない不思議な本です。(タイトルが悪いんでしょうか?)

私はあまりこういった書籍は勧めないんですが、必ずあなたの役に立つと思いますので、手に入ったら是非読んでみてください。

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